タグ: 心身論と生命論

  • こころとからだ の実体

    切っても切り離せない こころとからだ。心身医学の基本概念 心身相関 は、心と身体が相互に影響しあい、表裏一体の関係にあることを指します。心が身体の健康に影響を与え、逆に身体の状態が心にも影響する、ということです。

    ただ、David Bohm の こころとからだ の譬え:

    「透明な四壁で囲まれた水槽の中を、一匹の魚が遊泳してるとき、互いに直角になる2つの側面に映し出された魚の姿が心と身体であり、魚が人間の実体である。」

    からもわかるように、両者は本来分離できません。なのでより本質的には、2つの相互作用というより、1つの実体の2つの側面 :心の側面と身体の側面、ととらえられます。

    西洋科学にもとづく西洋医学では、分割・細分化して各々を分析し、全体像を明らかにしようとします。

    たとえば「痛い」という症状がある場合、胃や腸などの消化器系からきているのか、筋肉や肋骨などの筋骨格系からきているのか、子宮などの産婦人科系の異常によるのか、部位によっては耳鼻科系や皮膚科系など、その臓器系統の由来を特定するのは医学では重要です。身体の臓器系統だけでなく、心理的要因がメインの痛みもあります。

    このように「分類して」その要因を探る見方は、今日の医学の発展に大いに貢献してきました。しかし、それだけではうまく扱えない疾患が増えてきたのも事実です。たとえば、慢性的な痛みの由来を筋緊張と特定しても、筋緊張には末梢循環障害が関与し、それには自律神経の交感神経機能の亢進が関与し、それには不眠や心理的ストレスも関与する…というように、多くの要因が複雑に関与し合い、それらの要因同士も関係し合っています。

    このような場合、「分割して個別の病態要因を分析する」というやり方には限界があります。

    東洋医学における心身一如

    一方、東洋思想・東洋医学では、
    分割よりも統合
    部分よりも全体的観点
    に重きをおきます。こころとからだも一体のものとみなし、「心身相関」よりも「心身一如」と呼ばれます。

    東洋医学でも、「肝」「心」「脾」「肺」「腎」(五臓)のように、臓器に相当する概念があります。たとえば、「脾」は、食物を消化吸収し「気血水」を作り出す臓腑を指し、西洋医学の消化器系に近いですが同一ではありません。そして、五臓のそれぞれが以下のように、「情」(感情)と一つになっています。

    • 「肝」(精神活動/ 代謝、解毒、栄養供給など)– 「怒(怒り)」
    • 「心」(意識活動/ 血液循環や熱産生など)– 「喜(喜び)」
    • 「脾」(意欲/ 消化・吸収など)「思(思慮)」
    • 「肺」(気の流れ/ 呼吸や血水の生成など)「憂(憂い)」
    • 「腎」(思考や判断/ 成長、生殖、泌尿器系など)「恐(恐れ)」

    【左は 五臓 、括弧内の左は精神的側面/ 右は身体的側面の働き、– 右は対応する を示す】

    さらに、「が虚すればが虚す、が虚すればが虚す……」など、臓と臓の関係性を重視し、個々の「臓」よりも全体的なバランスや関係性をみます。また、「気」「血」「水」の「気虚」「血虚」「お血」「水滞」のような横断的な病態評価も重要です。なので、漢方や鍼灸などの東洋医学的治療では、個別の症状に対する治療よりも、心身の統合体 =「機能的統一体」1) とみて、全体のバランスや循環に重きがおかれます。

    「ストレス社会」で複雑な要因が関与する現代の疾患:生活習慣病やストレス関連疾患では、このような見方は極めて有用で、心身医学でもその見方が取り入れられています。もちろん、西洋医学的視点も重要で、両者の長所・短所を見極めることも重要です。

    こころとからだ の ダイナミクス

    もう一つ重要なのは、心も身体も互いに変化しながら関係しあうというダイナミクス、動的な視点です。

    生きている心や身体は、決して静的(固定不変)なものではなく、常に変化している、動的な存在です。1分前の身体の状態と今の身体の状態は同じではなく、今の身体の状態も次の瞬間に変化します。

    このようなダイナミズムは、「諸行無常」諸行=すべてのもの、無常=常がない)と言われる東洋の哲理とも一致します。

    心や身体のみならず、すべては続かず、必ず変化します。形あるもの、家や車や大切にしている物も、少しずつ変化して、いつかは崩れてしまう。どんなに頑丈なダイヤモンドといえども、永遠に輝き続けるわけではない。この地球も太陽もいつかは滅びます。私達のからだも同じで、どれだけ健康管理に注意していても、肉体は必ず老化して衰えます。

    形ないもの、地位や名声、人気、人と人との関係、愛情や信頼なども同じです。どんなに人気があっても、ずっと続くわけではなく、陰りがきて、やがて忘れ去られます。特に人間の「心」はコロコロ変わります(コロコロ変化するから「ココロ」だとか)。喜んでいたかと思うと悲しみ、怒りに満ちていたかと思うと、コロッと楽しい気持ちになったりします。

    そして、身体の変化は心の変化をもたらし、心の変化は身体の変化につながるのです。医療や心理面談などで、身体の状態がよくなると気分もよくなるし、不安がやわらぐと身体もリラックスします。言葉では前後ができますが、心の変化と身体の変化は同時です。改めて David Bohm の比喩 はとてもよくできているといえましょう。

    こころとからだ の 実体

    このように、心と身体が変化しながら関係しあうのですが、いずれも自己の実体のにすぎません。当然ながらこの「実体」も固定不変のものではありません。ではその実体とは何か。「私の心」「私の身体」であって、「私」=「身体」ではありません。そう言っている「私」とは何か、ということです。

    前述の「諸行無常」の次が「諸法無我」といわれ、まさにこの実体が固定不変でないことを表しています。「心」や「身体」という側面に現れた「影」を通して、自己の「実体」をみようとするのが心身医学といえるでしょう。医療や心理臨床で、心の変化や身体の変化をみる意義もここにあるのです。

    「自己知には無限の深さと多様性がある」(モンテーニュ)


    1) 相見三郎「漢方の心身医学」 創元社, 1976

    (Kanbara K, Psychosomatic Labo/ LABs Psychosomatic Medicine, https://bodythinking.net/column/mind-body-entity/, Aug. 2024)

  • 世界内存在

    ハイデッガーの 世界内存在 とは、
    「世界の内にある、という在り方をしているものが人間だ」
    ということで、言い換えれば、世界は人間(私)の構成分の一つであるということです。

    私の身体も、目の前の机も、家も周りの景色も、全てひっくるめたものが私。たとえば、目の前の机は、子供時代からの思い出を全て含めて慣れ親しんだもの、として私には見えています。そういう見え方をしている机というのは、私の世界だけにあるものです。その意味で、そういう机は私の世界の一部であり、私という人間の一部と言ってよいのです。

    ここで、机という客観的実体がまずあって、それに私が色々な思い出や意味を付与している、という意味ではないことに注意する必要があります。客観的実体がまずある、という考え方は、「諸法無我」にも反するものです。

    この考え方は仏教の「三界唯一心 心外無別法」という世界観に近いものです。心が世界を生み出す、ということは、私達の心が実体としての机や、実体としての地球を生み出す、ということではありません。私の心が今までの心の歴史からそういう見え方の世界を生み出す、ということです。

    赤いリンゴが一つあるとすると、それを”おいしそうなリンゴ”と見る人もあれば、”きれいなリンゴ”と見てスケッチする人もある。”毒でも入っているのでないか”と嫌な気持ちになる人もあるかもしれない。楽しい思い出を想起していい気分になる人もあるでしょう。

    世界内存在

    今の職場を ”いい職場だ” と思って張り切って仕事をする人もあれば、”何と嫌な職場だ” と不平タラタラで仕事をする人もあります。職場は全く同じでも、それを見る人の心が違うから、見え方は全く異なるのです。

    このように、同じものを見ても同じ見え方をすることはあり得ません。それはその人それぞれの過去の行いが違うからです。そういう意味でそれぞれの生きている世界は、その人が生み出したものです。

    ハイデッガーはそういう世界のあり方を ”世界内存在” と言いました。未来の世界は現在のその人が生み出すものです。あなたの未来を素晴らしい世界にするのも、真っ暗な世界にするのも、自身の心がけ次第ということです。

    (Psychosomatic Labo, https://bodythinking.net/column/sekainai/, July 2021)

    <参考文献>
    G.ベイトソン著/ 佐伯・佐藤・高橋訳 精神の生態学 (上) 思索社
    M.ハイデッガー著/ 細谷訳 存在と時間(上・下) ちくま学芸文庫